韓国雑誌『市民時代』7月号 徐世旭(ソ セウク)/編集主幹 筆者は去る3月と4月に独島(日本名:竹島)領有権の問題で知られている日本の島根県を訪れた。1回目の訪問は3月10日、財団法人人間自然科学研究所が主催する「平和環境健康特別区」申請特別国際シンポジウムに参加するためであった。 筆者がこのシンポジウムに参加したのは、「木曜学術会」の会員である李挺錫(イ ジョンソク)先生のお勧めであった。日本の歴史と文化に見識をもつ李先生が偶然な機会に人間自然科学研究所の理事長でありながら、小松電機産業(株)の社長である小松昭夫氏の独特な活躍をみて、筆者に一度お会いするようにと勧めてくれたからである。 しかし、筆者は個人的な人間関係としてのつながりよりも、公的でありながら、大義名分が立つ出会いを通して、必要に応じて「市民時代」に載せたい考えで、李先生を含む10名の韓国参加団に交流した。 釜山から島根県まで行くのには、そうとう大変だった。金海空港から仁川空港を経由し、日本の鳥取県米子空港に到着、そして島根県の中心都市である松江市に入らなければならなかった。 釜山から朝7時に出発し、目的地の松江市までは5時間の所要時間をかけ、正午に到着した。米子空港に到着した私たちを小松理事長と職員らが暖かく迎えてくれた。 午後2時からシンポジウムが開催されることを考慮すれば、シンポジウムを総括する小松理事長が空港まで迎えにきてくださったのは、私たちに対する格別な関心を持っていることを示唆している。 筆者の2回目の島根県の訪問は4月23日だった。先月の訪問がシンポジウムの参加と小松理事長に関する情報収集が目的であったが、4月は彼の取材が目的であった。2回目の訪問は韓国の事業パートナーである東宇技研(株)の゙秀煥社長が同行した。 2回目の訪問の際にも小松理事長が米子空港まで迎えに来てくださった。短い期間の間で外国人との再会は珍しいことであった。3月の出会いは公式的な枠の中で行われたので個人的な付き合いは難しかったし、国際シンポジウムを開催した理事長としても個人的な付き合いには限界があったと思う。二回目の彼との出会いは服装から気楽だった。筆者が一ヶ月余の間に再会し、取材に関心を持ったのは、中小企業人としての彼の生き方がユニークであり、企業人としての行動半径が韓国の企業人に高い教訓を与えられる一つの典型になると期待しているからである。 事実、彼に対する資料を収集し、会社を訪問・調査しながら、韓国と宿命的である日本人の取材をするのが果たして妥当なことなのか、何回もためらった。 しかし、筆者は、彼が日本人である前に一人の人間として、自由と平和の価値を信奉し、歴史の教えを刻み、文化を愛する品格をもった特別な存在をアピールすることは「市民時代」の読者にとっては一風変わった話題になると思った。 小松、彼は何者か 彼の名前を漢字解釈してみると「小さな松」の意味である。この意味を連想してみると、日本の伝統的な盆栽で見られるかわいい松を描くことができる。 今年、61歳の彼は典型的な日本人の風貌をお持ちの人である。大きくない背に少し痩せた小柄に見える体型、全体的に漂う雰囲気は質実剛健な気風で端整なイメージが感じられる人である。それに純朴感と穏和なイメージが顔に現れ、親しみを感じる印象であった。世の中にはこのようなタイプの人々の中で大物になるケースが多い。言わば日常生活では穏やかで柔軟だが、決定的に勝負を賭ける際には冷静で断固として対応するスタイルの人である。彼と多くの時間を一緒にすることはできなかったが、公式、非公式の席での多様な雰囲気から彼の行動様式を観察した結果、彼は確かに傑出した人物であることに間違いなかった。彼が生まれたのは島根県の中山間地の八束郡八雲村である。島根の意味は「島」の「根」である。日本列島の根として解釈され、日本史に神代の昔からの、韓半島との歴史の根は、私たちが知っている以上に深い。 特に、出雲市にある出雲大社に関する神話は、この地域の人々に韓半島との運命的な関係を振り返らせる象徴であった。しかし最近、島根は両国が独島(竹島)領有権問題で対立しているところだと韓国人は意識している。彼らが自国の領土だと主張している竹島(独島)は行政区域が島根県に属しており、独島(竹島)問題が話題になるたびに、韓国人にとってややもすると「島根」という地名は不快に感じる所である。 歴史的に、また現実的に不可分の関係にある島根は、日本の都道府県の中でも所得水準と文化水準が中位層に位置する比較的に物産が豊かな所である。 そして、自然環境は日本有数の景勝地に比べて少しも遜色がないだけでなく、むしろはるかに優れた条件であるといっても過言ではない。島根県全体にみると、山紫水明の景勝地とも言える。 山と川、海、そして日本どこにもある優れた温泉を備えている所である。ここは世界一の銀鉱をはじめ、日本でも有数の鉄の生産地として知られているだけでなく、日本一の「仁多米」が生産できる所でもある。それに質のよいシジミが大量に採取され、海と川が混合した中海と宍道湖からの豊かな物産は、この地域が持つとても優秀な競争力である。特に島根県の中心都市である松江市(人口25万人)は一言で中海と宍道湖に囲まれた「水郷」でオランダの首都であるアムステルダムを連想させる。 筆者は二回目の訪問の初日、小松理事長の招待により松江市の伝統日本料理店に招かれ夕食を一緒にした。そのお店はそんなに大きくない5階建てのビルだった。ビル全体が料理店で店の場所が絶妙だった。1〜5階まで各階から湖と松江市を眺められるように設計された建物だった。店が定休日だったが、島根県のVIPで著名人の小松理事長の特別な願いで開店したと、中年の仲居さんが話してくれた。特別な接待を頂くと思ったら恐縮で、夕やみが迫る宍道湖を眺めながら小松理事長の配慮に大変感動した。本当に美しい夜景で、酒を飲まずにはおられなかった。平素にはあまり酒をたしなまない小松理事長も遠いところから尋ねた友人と交わるため、酒を遠慮しなかった。やはり酒はどこで、誰と一緒に飲むのかによって味が変わっていくことを教えてくれた席だった。 そして翌朝、ジョギングをするために早く起き、ホテルを出かけた際、小松理事長の心配りと配慮がよく分かった。ホテル前の湖に数百隻のシジミ採り船が朝日に美しく染められた湖をゆらゆら揺れている姿に筆者は感動を受け、しばし目が釘付けになった。まことに神秘的な光景だったし、うっとりした心持で鳥肌が立っているようだった。「ああ、この世界を吟味して欲しいがために、前日のお店とホテルを選んで下さったんだな」と思った。小松理事長がいかに自分の故郷を愛し、誇りとして思っているのかがよく分かった。 このように美しくて優れた自然環境を背景として成長を成し遂げた小松さんは1963年島根県立松江工業高校を卒業し、10数年間のサラリーマン生活を経て、彼の生まれ故郷で事業を起こした。1973年、弟さん(現小松電機常務)と2人で、10万円の元手と中古車1台から創業し、日本全国に代理店網を構築する優良中小企業として成長した。そのきっかけが1985年に開発したシートシャッター「門番」である。「門番」は一時的に市場シェア6割まで確保するほど怪力を発揮し、小松電機は一躍成功したベンチャー企業として取り上げられ、マスコミや経済界から注目された。この成功で、企業はさらに健全化し、個人的にも富を得ることが出来た。 韓国企業に無償の技術移転 彼が開発したシートシャッターは、私たちの周りの工場や商店街などでよく見掛ける保安用の鉄シャッターとは材料が違った。半透明の特殊ビニール製のため、軽くて瞬間的に開閉できる機能があり、鉄材に比べ設置が容易で経済的なので爆発的に需要が伸びた。彼の製品が日本で成功の道を歩んでいた1990年、韓国の事業家の一人が島根県を訪れ、小松社長に技術移転の話を慎重に申し入れた。彼が40代の事業家である゙秀煥さんだった。 勿論、゙社長は国際慣例に従い所定のロイヤリティーを払う前提で小松社長と相談した訳だ。しかし、どういうことが社長の相談を受けた小松社長は無償の技術移転を約束した。゙社長としては予想外の展開で面くらった。しかし、それは事実だった。勿論、日本で成功した技術が韓国でも100%成功するとは言えないが、当時の状況からその技術を韓国で展開すると大儲けになると期待できたと思われる。 小松社長が韓国に無償で技術を移転したのは特別な訳があった。歴史的に日本は昔から韓国から数多くの恩を受けたにもかかわらず、愚かな政治家らが韓国を侵略、支配したことで韓国民に苦痛と困難を与えた日本人の子孫として、恥ずかしさと罪悪を感じ、自分の能力が至るところまで韓国に償いたい気持ちでそうやったそうだ。 筆者は1億2千万の日本人の中で小松さんのような考えを持つ人がほかにいるのかと考えてみた。国際社会でエコノミックアニマルと言われる日本人の利害打算的な考え方を思ったら、小松さんのような思考を持つ人はでは殊勝でないかと思った。まことにユニークで奇特な人である。 故郷を愛する運動に献身 更に、農業、漁業、工業など1次産業が主である島根県の特性を考えた時、彼の成功は島根県の誇りである。 とりわけ、彼の成功は彼に相応しい社会的な評価を導き出した。1991年「中小企業研究センター賞」、「ニュービジネス大賞」「地域社会貢献企業人賞」をはじめ、日本経済新聞の「地域活性化貢献企業賞」などの権威ある公的機関で、全国企業人を対象にする権威ある賞を受賞するに至った。彼が受賞した賞の中で地域社会貢献と地域活性化貢献の部門が特に目立つ。一介の中小企業家が地元のためにいかに偉大な業績を積み上げてきたかが分かり、注目に値する。 小松社長はこれら偉人に対する出版事業をはじめ、彼らの業績を再評価する学術行事と共に、銅像まで製作するなど故郷に対する愛を見せている。特にこのような追慕事業は多額の予算が必要なことを考えれば、事業から出た利潤を地域に還元する小松社長の見識と眼目は誰もが持てることできないレベルのこととして高く評価されている。 財団法人人間自然科学研究所の設立 この研究所が設立され、今年で12年。その間、日本国内外で展開した事業実績をみると、その規模と質において全ての事業がはっきりとした目的と位置付けのもとに展開されている。 まず、研究所が設立された年に開催された「神在月縁結び世界大会」が挙げられる。この大会は、神話伝説を現代化した象徴的なイベントである。その神話では島根県出雲市にある出雲大社に旧暦の十月に全国の神々が集まって会合を開き、男女の縁結びをなさるという。参考として出雲大社は日本の天皇が巡礼するほどの旧官幣大社である。この神話を背景に小松理事長は、日本国内は勿論、国際レベルで高い理想をもつ人物が集まり新たな時代を創造する出会いの場を提供する目的で、今日まで6回に掛けてこの大会を開催した。 次に、マクロバイオテックの世界的な指導者である久司道夫先生を招き、「人と水と食」のシンポジウム、「中海・本庄工区の未来構想」のシンポジウムなど、国際レベルのシンポジウム及びセミナを数十回開催し、数十回の会議、講演会も開いた。 そして、前述の出版とともに、孔子の「論語」を日中英対訳新版として出版するなど多様な出版事業を行った。 韓国独立記念館に100万円を献金 しかし、彼が歩んできた人生をよくみると理想を追求している人であることが解る。そうだといって、ひたすら地に足の着かない夢を追う幻想主義でなく、冷酷な現実に基づき自分の国と地域、そして日本と地理的、歴史的、経済的に必要不可欠な関係の隣国のための、理想的な目標を目指す旺盛な活動を続けているのである。 彼は1997年に韓国独立記念館を訪問し、自分の先祖が犯した過ちを痛烈に反省すると共に、過去を直視し、どう未来に結びつけるかを考えた。そこで日韓両国民の歴史認識が深まり、新たな人類の活動の輪が広がることを願って100万円を寄付した。これは日本人の誰もができなかった大いなる歴史に対する自覚と、本心から沸いてきた贖罪行為であった。 ところで、彼のそんな行為は韓国でのあるできことがきっかけだった。25年前に韓国を訪問してタクシーに乗ったところ、日本人だという理由だけで相乗りの人から侮辱されたことがあって、そこから韓国人の日本に対する深い恨みを痛感し、日本人としての恥ずかしさを痛切に感じた。しかし、そのような出来事は珍しい。植民地政策を経験し日本から苦痛を直接に受けたか、その直系子孫ではないと、あまり表には出さない。本音としては日本人が嫌いかもしれないが、建前では外に出さないのが通例である。たまたま小松理事長が異例の人にお目に掛かったということだ。しかしそれによる衝撃が大きかったようで、そこから韓国と日本との歴史を深く学び、知ることができた。 また、そのきっかけよりも前に、自分が開発した製品の技術移転を何の代価もなしに韓国に移転した。その後、彼は島根県の指導者を数人招待し、独立記念館、西大門刑務所、白凡金九記念館の訪問をはじめ、大韓赤十字社を訪ね、北韓食糧支援金500万円を寄付するなど日本人として誠意を示した。 孔子・孟子銅像を建てた知識人 小松理事長の中国に対する関心と交流は韓国に比べ、もっと深く見えた。2000年に中国の山東省に訪中文化経済交流団を派遣された際、チャーター便を利用するほどだからである。 韓半島の西海岸の反対側にある山東省には孔子の故郷の曲阜があり、韓国の企業も集中的に事業展開をしている青島、そして未来の港湾といわれる大連と山東省の省都である済南も含まれていた。 小松理事長は中国の近代化過程に重要な機能を果たしている都市を訪問することをはじめ、2001年度にもチャーター便を利用し80名で西安・済南・曲阜・北京訪問をした。「中国人民抗日戦争記念館」を訪問し、献花ならびに趣意書と運営基金としての100万円を寄贈すると共に孔子、孟子の銅像製作を依頼した。 ここで小松理事長は何のために孔子、孟子銅像を製作したのか。とても興味津々だった。 一時期、孔子の国である中国では“盗跖が犯した解読は一時的だったが、盗丘(孔子)が残したわざわいは万歳に至る”と言い、五・四運動の際に思想家である?虞は中国を滅ぼした主犯として責め立てた。 そして「批林批孔」−“孔子と林彪を批判した運動”の文化大革命の際に毛沢東は“私は始皇帝は認めるが、孔子は認めない”といい「批林批孔」に力をいれた。 この反孔子論のため今日の中国人は孔子と儒教に対する認識が薄い。幸いにケ小平の改革・開放政策以来、優秀な文化を宣揚するため、孔子の思想を中華民族の生きる源泉としてほめたたえ、大学キャンパスに孔子銅像も建てた。 中国文化院を孔子研究院に変えるなど中国の中興のため孔子を積極的に活用し始めた。 事実上、孔子と孟子が教えた儒教が世界で一番花咲いたのは韓国である。しかし、孔子、孟子銅像を建てた話は寡聞にして聞かない。しかしながら儒教思想が崩れ落ちた日本に莫大な資金を使い孔子、孟子銅像を製作し、それを日本に建てたのは極めて異例なことだと思われる。 なんと言っても、小松理事長は人類の知恵人孔子、孟子を尊敬し、その教えが人類を救えると強い信念を日本人に今更悟らせ、後世に伝えたい強い意思が銅像を建てるまでに至った人だ。彼が孔子の「論語」を日中英対訳新版に出版し、配布したことをみてもよく分かる。 筆者が二回目に日本を訪れた日に彼はそのまま孔子と孟子銅像が建てられた燕趙園という中国式庭園に案内してくれた。その庭園は島根県の隣の鳥取県に所在している日本最大の中国式庭園であった。天湖という湖と接している平地に、瓦まで中国から輸入して中国庭園を建てたことをみて縮み志向の日本独自な文化を感じることが出来た。 ちょうどこの庭園の片方に孔子・孟子銅像が並んで建てられていた。小松理事長が中国から依頼・製作したもので燕趙園に贈呈したものであった。 空港に到着してから中国式庭園に走ってきたのも筆者に何よりもこの銅像を見せたかったからである。孔子、孟子の国でもない日本で、人類の偉大なる知恵人の銅像に頭をさげ、静かに心落ち着かせることができた。 そして小松理事長が行っている数多くの事業の中で、凡人としてはとても発想さえできないこの事業を莫大な予算を掛けて実行していることに敬意を表すしかなかった。 このよかにも小松理事長は数回に掛け中国を訪問し、日本軍の残虐な生体実験を行われた「731部隊記念館」を訪問し、先祖が犯した罪をかみしめた。また、山東省棗荘市の「台児荘大戦記念館」に運営基金として100万円を寄付したのをはじめ、対中国交流に情熱を注いでいた。そのような彼の対中国民間外交は膨大な資金を要するので誰もが出来ることでもないし、もし資金があるとしても国際平和に対する素直な意志と識見がなくては不可能なことである。 企業人としてのNGO運動家 韓国で企業人が市民運動をやるのは強い意志と勇気がなくてはとても難しいことである。たまに企業家の中で市民運動をサポートする人はいるが、企業家自身が主体的に市民運動を展開するのは特別な場合に限って、可能なことである。 そうだといって、日本の企業家の中で市民運動を主導する人が多いとは限らない。小松理事長のような人物ではないととても思いもよらない。筆者は今まで実践に移した数多くの活動を調べた結果、彼は平和・環境・健康・地域共同体の革新のために多様な事業を展開してきたのがわかった。これも全て小松理事長が企画し展開したことである。 二回目の訪問の際、昼食のため中国庭園に行く道の途中にあるレストランに寄った。お葬式場のリムジンが何台か停車している所だったが、そのレストランは小松理事長夫人が運営している自然食のレストランで、料理長は息子が担っていた。食事をするうちに、このあまりお金にはならないようなレストランを、夫人が運営するように(小松理事長が)応援している意図がわかった。小松夫人は病で苦しんいたが、玄米食を主食にする自然食のお陰で健康を回復し、自然食の信奉者になり、その方面の専門家として多様な活動を行っている。自然食に対する信念がいかに強かったのかが、息子にまでその仕事を継承しようとしていることから分かる。正直に言うと、玄米食は砂を噛んでいるような歯応えで、コース料理に出された料理もあまり口に合わなかったが、薬を服用する気持ちで全部御馳走になった。 金にはならないようなこのレストランこそ自然食運動の発信地だった。この食堂には世界的に有名な自然食研究家で運動家である久司道夫先生が著述した各種の本や資料などが展示、販売されている。これだけみても単純にレストランの運営が目的ではないことがわかった。小松理事長が何故、私たちをそのレストランに案内したのかはよくわからなかったが、彼が展開する一連の社会運動が生命の健康に重点を置いていることを表すには十分なことだった。考えてみるとお金、権力、名誉、そして社会の平和も、個々人の健康な生命力から起因する。彼の健全な食文化運動がいかに大きな意味を持つのか改めて感じることが出来た。 彼が100%出資して設立した財団法人人間自然科学研究所で、莫大な予算を投入してまで展開してきた事業の内容は全て市民運動レベルになっている。 特に彼が2005年6月に小泉首相に提出した「平和環境健康特別区」申請は今まで彼が展開してきた数多くの事業と運動を集大成する意味を含めている。 この特別区申請は人類の平和を念願し、実現するための大きな事業で、そもそも国家レベルで展開するべき規模の事業である。今年3月10日に島根県松江市で開かれた国際シンポジウムもこの特別区の推進のためである。小松理事長は必死に、この特別区のため努力を注いでいるとも言える。特別区の概要は、島根県と鳥取県を流れる中海圏の米子市崎津地区(77.8ha)の干拓地に人類の「和」を創造するため、近代日本との戦争で亡くなった方の追慕館と戦争に対する各種資料を収集して保存する施設と「世界の戦争と平和」写真映像記念館をはじめ、戦争を予防し、平和を構築する記念碑石公園などが含まれる。言わば、自由と平和を愛する世界人が一つになって平和・環境・健康を目指すための特別区造成である。非常に大きいスケールを、政治家でもない企業人がこのようなプロジェクトを構想し実現するための具体的な努力を注いでいる。小松理事長の野望は実に驚くものである。 魔法の経営者 先月9日から開幕された「2006ワールドカップ」の予選戦で「魔法」という言葉をよく耳にした。日本とオーストラリアが1対0で負けていたオーストラリアが競技の終了8分前3ゴールを集中させ、3対1の奇跡のような逆転勝ちを導き出したオーストラリアの「ヒディンク」を称して「ヒディンクの魔法」が知られている。 彼は2002年ワールドカップの時、日本と共同主催国である韓国に魔法のようなベスト4を達成させ、世界を驚かせる「魔法」を見せたことがある。今回も彼の「魔法」が効くのかと関心を表わす世界の人々が多いようだ。 因みに、ここで言っている「魔法」とは、魔術や手品を使うという意味より、卓越した能力をさす。 小松社長に「魔法の経営者」というのは魔術や妖術をかける意味よりは優れた能力を含めたことに違いない。 小松社長に「魔法の経営者」という表現をするのは筆者の判断でなく早川和弘といるジャーナリストが著述した小松さんの伝記に当てはまる「魔法の経営」という本から引用したものである。 小松社長が代表取締役である小松電機産業株式会社は大きく分けて3種類の事業を展開している。 父の地方議員の落選で家庭が経済的に苦しくなり、大学進学を放棄して農業機械メーカーに入社し、設計部門に勤めた。しかし、その会社が倒産し、大阪の設計事務所に勤めたがうまくいかずやめて、拾ったパチンコ玉で稼いで生活するなどの彷徨の後、地元に戻ってきて弟と一緒にトイレ、下水道などの詰まりを解消する仕事をはじめた。そんな彼が一躍日本でも著名なベンチャー企業家として成功を成し遂げたことをみても「魔法の経営人」と呼ばれる根拠になる。彼の成功は自ら研究、開発したシートシャッターがヒットになってからである。 「門番」は従来の概念を脱皮し、原資材から異なる画期的な商品として防寒、防塵、防虫性にエネルギーの節約効果まで加えられ工場、倉庫、商店などで爆発的な人気を集めている。小松社長は「門番」の開発により日本のニュービジネス大賞を受賞した。 二番目の事業は「やくも水神」という上下水道遠隔監視制御システムの開発と運営である。このシステムは高度の先端事業として、世界的な通信会社であるNTTドコモの携帯電話からiモード・インターネットで施設を制御監視するものである。このシステムは日本科学技術庁で「注目発明選定証」を交付されるほど日本政府が公認した技術であり、効率的な上下水道管理に寄与した商品である。 三番目の事業は地球蘇生事業である。小松社長からは生産的な企業活動を通じて自然環境と社会環境の変革を齎す努力が見える。新しい概念の「門番」とインターネットで制御監視する「やくも水神」の開発も包括的に環境のコンセプトを元にしている。 特に小松社長が「水神」をブランド化した意味を吟味してみると、水に対する愛着心がいかに大きいのかがよくわかる。“水は神だ”という命題は人類が一番深刻に受け入れ、使命感をもって取り組む必要がある問題である。彼は近年に石油問題よりも水問題で平和が脅威にさらされることを予言し、それに対する準備を強調した。 それで多く投資をしながら段階的に成功している事業が排水処理システムである。小松社長の案内で二度にわたって訪問した農村地域の生活下水処理場は、電機・電子技術がどこまで発展するのか、その可能性をみせてくれた現場であった。 住民約900名が排出する生活排水を、微生物による複合醗酵工法により、最後の放流水が飲用水レベルまで処理できるようにする下水処理場である。そこはたった一人の職人により運転されているが、それは自動制御システムが備えているからである。 現在は生活下水を処理するレベルだが、これからは畜産排水、工業排水を完全処理し、資源化できる段階まで発展させ水資源の不足に対応し、汚染された海と湖を復元させることにも貢献したいとする信念強い事業計画である。これからどれほどの時間と努力が必要なのか予測できないが、現在に実行されている一連の過程を見た通りでは近いうちに地球環境を蘇生させる「魔法の経営」が再び作用され大きく貢献すると期待している。 一方で小松社長の「魔法の経営」が行われている小松電機産業を二度にわたって訪問し調べるうちに、彼の独特な性格と経営観を感知することができた。 ある程度に規模のある企業には社是、社訓、経営理念といった会社のスローガンがあちこちに貼られている。韓国の場合は大体が硬い文章で書かれている。日本企業が一般的にどういった文章にするのかよく分からないが、小松電機の経営理念は奇異なものだった。 “おもしろ、おかしく、楽しく、愉快に”が会社の経営理念である。このおかしく、楽しい経営理念こそが魔法を作り出す出発点だと確信を持たせるようだ。それだけでなく、会社は宍道湖周辺に位置しているが、むしろその場所にはホテルやレストランを建てたほうが相応しいくらい眺めがいい所だった。 工場の内部も筆者の常識からは外れた奇抜な所だった。製品を生産する工場には何人かの労働者が働く中で、すべての設備が自動化され、水が流れるような光景に気を取られ眺めているのも魔法に掛かっているようだった。 食堂からは工場全体の動きが観察できる、怖いほど緻密な設計になっていた。そして食堂に付いているバーラウンジでは宍道湖を眺めながら一杯のカクテルを飲めるようになっており、小松社長のヒューマニズムとロマンティズムをたっぷり感じられる所だった。 そこは人間を人間らしくする真におかしく、楽しい人間の工場であり芸術的な感覚と眼目が目立つ、美しい魔法の工場であることに間違いなかった。とりわけ小松社長はおかしく、楽しい方だった。 昔、誰かがこう言った。“自分だけのために努力する人は「小人」であり、他人、共同体のために努力する人は「大人」である”ついこの言葉を思い出したのは、この言葉は小松社長に当てはまることだと思ったからである。世の中には小松社長のように体型は大きくないが、思考と能力が大きい人は数多く存在している。“小さいトウカラシが辛い”という韓国のことわざのように、体型が小さい人が大きい人世を送る場合が多い。 それでは自分の会社のことでも忙しく、ライバル会社からの挑戦にも刻々対応し、準備しないといけないのに、規模が大きい社会事業のアイデアと推進力はどこから出るのか。小松社長は社外活動の中で、学校と公共機関に招かれ、講演の講師としても活躍している。しかし面白いのは小松社長が本をあまり読まないことだった。世の中の流れを掴むため、主に新聞を活用していた。いくつかの新聞には必要な情報と知識が溢れている。本を読む必要がないからではなく本を読む時間が足りないことだ。新聞から多くのことを得ると言う小松社長の話を聞いてみると、いつも手軽で手に入れるのが新聞だと思った。新聞は高度の専門性を備えた知識人が参加して作られる。そして世の中に溢れる数多くの知識と情報の中で必要な部分だけを取り上げ整理された記事を読むことができるから、これほど安い価額で高い価値を得る方法はないだろう。特に最近の新聞はより雑誌化され、多様化、多事化された世の中の潮流を反映してくれるため、多くの時間を掛けて本を読むよりは安い費用で適正な情報を得ることが出来る。 多くの人々は新聞を読む際に習慣的に大タイトル、中タイトル、小タイトル程度くらいで大ざっぱに読み上げるが、小松社長は新聞を精読する習慣を持っているようだ。 成功する人には一般人と違う特性と習慣があるのが定説だ。それで一番良い子供の教育は、良い習慣を身につけるように誘導することである。 そして彼は新聞から得た知識と情報をそのまま受け入れるのではなく、自分の思索を通じて内面化させる過程を習慣的に繰り返しているようだ。このような彼の特有な面は、対話に染み付いている哲学的、理想的な面から感じられた。彼が設立した研究所と今まで不断に実践してきた社会活動の内容が、ずばりこの理想主義的で哲学的な傾向からスタートされたといっても間違いないでだろう。 とりわけ小松社長は滅多に見掛けられない日本的な企業家であり、偉大な人物である。 企業人として成功した小松社長を探索し、証明する本が2冊も発刊されたのをみても彼に対する立証は終わったと思う。そして日本の重要新聞とメディアが彼を取り上げたものも数多くあり、韓国と中国のメディアからも数回紹介されるほど社会に影響力を及ぼす人物である。それなのに筆者が二度も日本に渡り、彼と会って周りを取材したのは、彼の企業人としての生き方が韓国の企業人に立派な手本になると信じたからである。 筆者は成功した企業人こそが真なるリーダーになれると考えている。企業の経営マインドで社会と国家を改革させることが、政治と行政よりも効率的だと考えているので、韓国からも多くの中小企業人が小松社長の生き方と「魔法の経営」をベンチマーク(基準点)にするように誘導したくこの記事を述べた。 筆者は今度機会があれば、小松社長を招き、韓国の企業人と交流会を開き、両国家の企業人が知恵を搾り出し、情報を分け合うことで両国家の社会を改革させ平和を増進させるため努力するつもりである。 取材したものを全部述べようとしたら一冊の本でも足りないほど分量である。紙面の理由で纏めるのが名残惜しい。取材を気持ちよく受けてくださった小松社長と協力してくれだ秀煥社長、尹熙竣さんには深い感謝をささげる。 (完) |
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作成:Yaling wei |